昭和44年06月22日 夜の御理解
これ程信心するのに、どうしてこの様な事が起こるであろうかと思えば、もう信心は留まっておる。こりゃまぁだ信心が足らぬからじゃと、一段と信心を進めていけば、そこからおかげが受けられると申します。もう繰り返し繰り返し頂く御理解でございますけれども。しかしこれを実際問題の上に押し当ててみると、もうどうしてこの様な事が起こるであろうかと、言葉にゃ出さんでもそれと同んなじようなところ、を繰り返しておるようですね。お互い。
実際問題に直面して、例えばおかげに例えば病気なら病気、はぁこれでおかげを頂いたというて、いうならお礼のお届までさして頂いたのに、またぶり返っておる。それじゃね同んなし事が繰り返し繰り返しになって来ると、どうしてと思うたり、言わばこれはまぁだ信心が足りんからじゃと、言った様な元気な心が出なくなって来るんです。例えばどうしてと思わなくても、こりゃもう実際問題になって来ると、非常に難しいことだと思うんですよね。
ただもう信心さしてもらう者は、皆んなそこんところを知ってもおりゃ分ってもおるんですけれども、一つの問題なら一つの問題が、繰り返し繰り返しおかげになったかのように見えて、おかげにならないと言った様な時はですね、必ずあのうどうしてたぁ言いよらんで、も心の中では、あすこはこうしてみると、どうしてというものがあるんですよ。そしてそれを神様の、まぁご都合だと言った様な、迫力のなぁいご都合にしてしまってですね、しまうんですから。
そこんところを、ならその神様のご都合をね、こりゃやっぱりあのう、これは信心が足らんからだということは、これは改まりが足らんからだと、いうところに持っていくとですね、そのたんびに楽しみが出来て来るですよ。やはり生き生きしたしたものが生まれて来るですね。神様のご都合にゃ間違いないばって、そんならどういうご都合と、こりゃ改まれというご都合だと言う風に頂くことね。そこんところをひとつ、あのうひとつの人間関係のことなんかは。
もうこりゃ繰り返し繰り返しそのうおかげ受けたようであって、又受けよる受けてないと言った様な事が多いんですがね。それにそこんところをほんなら、こりゃまぁだ信心が足りぬから、一段と信心をと言う様な迫力にもなって来ないし、というてなら又どうしてとも言よらん思よらんごたるけれど、ややそれがあって結局なら同なし事堂々回りばぁっかりじゃないかとお互いの信心がね。そこからみていかにこの御教えが難しいかということが分るし、そしてその難しいというても。
そこんところを本気で取り組まなければならんということが分る。でそこんところをひとつあのう、どうしてこれはまぁだ信心が足りぬからだと、一段信心を進めていくというところから、ひと修行しようと言った様な事だけじゃなくてですね。これは改まりが足りんからじゃという所に焦点をおくと、何んとはなしに生き生きして来るようですし。あぁその後にですねおかげを頂いたという。その自分の心の上におかげを頂いたというものが生まれてくるようですね。
どうぞ。
今日朝からご祈念の後にある方がお届される、今いう人間関係で堂々回りの処そしたらそのう、その人はおかげを受けているんですよね。こう何かこうボクボクになったような木の根から、こりゃ食べられるキノコだろうと思われるようなキノコがこう出ている処を頂くんですね。心が腐るということですね、心がもう本当にいつっまっでんおかげを頂き切らんと言う様な心が腐る訳です。けどそれを何んとはなしに信心でですね、こう頂いておられるとこなんですよ、だからそのう心が腐るからキノコが出来とるという。
そのお礼はこう申しあげておられるようですけれどもね。改まるというところにもう何です、も少し斬新なそのう腐った木ではダメですから、やっぱり生き生きした木芽が出る様な葉が出るような木を頂くということですね、ここん所にいまからの人は大体出来とるようですもんね。心が腐ってもそこからまぁ何んとはなしこうに信心の味あいと言った様なものを頂いていきよるますけれども、そのうやはり腐った木は腐った木のままじゃ生き生きしたものがね。
どうぞ。